病院の待合室で気づかされた、私たちが本当に見直すべきコト。
私たち親は、どうして子育てに悩み、道に迷ってしまうことがあるのでしょうか。 「知らないこと」に対して、どうしてこんなにも臆病になってしまうのでしょう。
大切なお子さんに、心身ともに健やかに育ってほしい。その一心で、良かれと思うサポートを日々、懸命にされていらっしゃることと思います。
でも、その想いが強すぎるあまり、かえって子どもの心を不安定にさせてしまうことがあるのかもしれません。 周りの子の成功例を聞いて焦ったり、子どもの感性よりも先に、知識を詰め込むことを優先してしまったり…。
何より大切なのは、「他所の成功例」をそのまま当てはめることではなく、まず、「我が子の心を、深く知ろうとすること」ではないでしょうか。 そして、そのためには、「親であるご自身の心と体が、健やかであること」が何よりの土台となります。
そのご家庭ごとの、かけがえのないペースがあって良いのだと、私は心から思います。
先日、病院の待合室で、日頃の喧騒から離れ、ふとそんなことを考える時間がありました。
受験まであと三ヶ月。待合室での「勉強」
私の隣に、小学六年生のお子さんと、そのお母さんが座られました。 座るや否や、お母さんはカバンの中から中学受験の過去問を取り出します。試験まであと三ヶ月、といったところでしょうか。病院に来てまで勉強とは…本当に大変なことだと、お子さんを見つめてしまいました。
「今日は、ここからやりなさい」
始まったのは漢字の問題のようです。お子さんは、なかなか苦戦している様子で、分かるところだけをポツポツと埋めていきます。 それを眺めていたお母さんが、娘さんにこんな風におっしゃいました。
「本を読まないから、漢字を覚えることができないのよ」
受験まであと三ヶ月という、この瀬戸際に投げかけられたその言葉が、鋭く私の胸に刺さりました。読みかけの本から目を離してしまいました。
皆さんはどのように感じられるでしょうか。
今、このタイミングで、その言葉をかけることが、この子の力になると思われますか?
「言葉」と「行動」、子どもが見ているのはどちら?
私は「家庭の在り方」は、そのご家庭ごとのペースで良いのだと、つくづく思うのです。 他所は他所、うちはうち。誰かと比べることに、意味はあるのでしょうか。お子さんが幸福へと近づくのでしょうか。
目の前の方が席を立たれたので、ふと、再び隣に目が移りました。そして、そこには、胸が「ハッ」とする光景があったのです。
お子さんに「本を読みなさい」とおっしゃった、まさにそのお母さんご自身の手には、スマホがあり、熱心に動画を視聴されていたのです。
もし、子どもに「本を読みなさい」と願うなら、まず私たち親が、本を読む楽しさを心の底から味わっている姿を見せられたら、素敵ですよね。
子どもに「勉強しなさい」と命じる前に、親である私たちが、まずは机に向かい、何かを夢中になって学んでいる姿を見せること。
それこそが、何百の言葉よりも力強く、子どもの心を動かす「教え」になるのかもしれません。
やがて、お子さんはノルマが終わったのか、自分のスマホを取り出し、画面に釘付けになっていました。さっきまでのこわばったピリピリとした空気はどこかへ消え、穏やかで、楽しそうな、ゆったりとしたオーラが流れてきました。
そして、その隣では…。 お子さん以上に熱心な様子で、スマホ画面を凝視しているお母さんの姿がありました。
子どもは親の鏡、とはよく言いますが、親子の視線が、それぞれのスマホの画面に吸い寄せられているその姿が、私には、まるで瓜二つのように見えてなりませんでした。

私たちが本当に「見直すべき」こと
子育てにおいて、私たちが子どもに望む「成長」や「幸福」とは、一体何なのでしょうか。 知識をたくさん詰め込むことでしょうか。 それとも、目の前の環境を、自らの心で感じ、どう生きるかという「姿勢」そのものでしょうか。
子どもは、親の「言葉」を額面通りに聞いているのではありません。 親の「行動」を、その「生きる姿勢」を、全身で吸収しながら育っていきます。
親の背を見て子は育つ。
形式的な勉強を強いることよりも、 私たち親自身が、好奇心を持って学ぶ姿。 本一冊を心から楽しむ姿。 人との対話を慈しむ姿。
そんな日々の「姿勢」こそが、お子さんがこの複雑な社会で、自らの能力を存分に発揮するための、揺るぎない土台となるのではないでしょうか。
病院の待合室でのわずかな光景が、今一度、私たちの子育てへのまなざしを温め、足元を優しく見直すきっかけとなれば、こんなに嬉しいことはありません。


