第3話:大学生の娘から学んだ子育て。
娘が旅立って数日後、日曜日の昼下がり。
二人で庭の草むしりをしている時、夫がぽつりと呟いた。
「オレたちは、娘に何かしてあげられたことはあったのだろうか」
一方は、生き生きと人生を楽しみ、一方は、まるで時間が止まってしまったかのように苦しんでいる。
あれは、娘がまだ中学生の頃、私たち一家は近所でも評判の仲良し親子だった。
買い物にも、映画にも、一緒に出かけていた。
洋服のセンスが良かった夫は、娘の買い物にもよく付き合い、娘も「パパの選ぶ服は友達にも評判がいい」と喜んでいた。
一体、いつからすれ違ってしまったのだろう。
確か中学2年の頃だったと思う。夫婦で参加した子育てセミナーで、講師の心理カウンセラーが言っていた言葉を思い出した。
すれ違いの始まりは、角度が1度変わった瞬間
「家族でも、友人関係でも、角度が一度でも変わったら、時間と共に心の距離は何万キロにもなってしまう」。
セミナー後、二人でお茶を飲みながら、「うちには、全く当てはまらないね」と笑い合っていたのにー
今、私たちにできることは何だろう。娘のいない家は、あまりにも広くて静か。まるで、時間が止まってしまったかのようだ。でも、この静けがなかったら、いまだに私たち夫婦は、娘の気持ちに寄り添うことの大切さに気がつけなかったのかもしれない。
静けさが運んできた『親子』のカタチと、娘が残した『子育て』の意味。
夫の投げかけた問いに、なんと答えれば良いのかと言葉を探していると、何かが手に当たった。
それは、娘が10歳の時に庭に埋めた『10年後の自分へ』と書かれたお菓子の缶だった。これを埋めたことすら、私たちは忘れていた。
「開けても、怒られないかしら?」と、恐る恐る、箱を夫に手渡した。
土がついた箱の蓋はなかなか開かない。まるで、開けることを拒絶しているかのよう。夫がシャベルの先端を蓋に差し込み、ギューギーと鈍い音をたてながら、ようやく蓋が開いた。中を除いてみると、そこには1通の真っ白な封筒が入っていた。
封筒の中央には「大好きなパパとママへ」と、太くしっかりと大きな文字で書かれてあった。夫は手につけていた軍手を外し封筒を持ち上げ、白く細長い指を封筒の中に入れ、かわいいキャラクターの便箋を1枚取り出した。便箋を持った夫の指を見て、娘の指は間違えなく、この人から引き継がれたものだと思うと、なんだかおかしさが込み上げ、クスリと笑ってしまった。
夫は、一気にざっと目を通して、何も言わずに私に便箋を向けた。私は夫のほうに体を少し動かしながら軍手を外し、便箋を引き取った。そこには、こんなメッセージが書かれてあった。

「大好きなパパとママへ、◯のことを大切に育ててくれて、ありがとう。
パパへ、毎晩、遅くまで、家族のためにお仕事をしてくれてありがとう。あんまり無理をしないでね。◯は20歳になっても、パパとお買い物に一緒に行っていると思う。そして、◯もパパみたいにセンスが良くなりたいのでコーディネイトの仕方を教えてください。
きっと、20歳の◯は、お化粧したり、友だちと出かけたりもしていると思うのでお願いします。
ママへ、いつも美味しいお料理を作ってくれたり、お洗濯やお掃除をしてくれてありがとう。◯も、ママみたいな素敵な女性になれたら良いなって思います。
パパとママは◯の自慢です。お友達たちも◯のうちは、家族が仲良しでいいなぁって、いつもうらやましがられているんだよ。
これからも、3人で仲良く、◯が大人になっても、ずーっと、ずっと一緒に過ごしていたいです。だから、いつまでも元気でいてください。 ◯より」
夫を見ると、静かに泣いていた。涙を手で拭うこともせずに、ただ一点、封筒を見ながら泣いている。男の人というのは、こうやって泣くのかと、初めて夫の泣く姿を見た私は戸惑いを隠せなかった。しかし、私の手は夫を静かに包み込み、まるで赤子をあやすかのように、背中を摩り始めていた。
いったい、どれくらいの時間が経ったのだろう。
夫が静かに私の手を取り「部屋に入ろう」と、立ち上がった。彼は前のめりに歩き出した。背中を丸め肩は落ちきっている。夫の影がほとんど見えない。
夫の背中から、カウンセラーの声が聞こえたかのような気がした。
「角度が一度ずれると、相当な心の開きができる」
たった一度の角度が、こんなにも私たち親子の距離を離してしまうことになるなんて。
食卓のテーブルに座った夫に、お茶を差し出し、私は向かい側の椅子腰掛けると、夫は湯呑みを眺めながら、淡々と離し始めた。
「子育てって、なんなんだろうか。娘のためと思ってやってきたことが、実は、親の価値観を押しつけていただけだったなんてことを後から知るなんていうのは、なんなんだろうね」一気にそこまで話をすると、お茶を一口啜った。
「『子どもが、自分らしく生きることを応援すること。子どもが自分の才能に気づき、その才能を活かすために支えること』なんということは、専門家の戯言だと思っていたが、そういうことこそが大切だなんてさ」
ようやく、お茶から目をあげ、壁にかかった小さかった頃撮った家族旅行の写真を見ているようだ。
「本当に、なんなんでしょうね。まさか、今になってあの手紙が出てくるなんてね。お父さん、私、この間から考えていたのよ。
私たちにとっては最初で最後の子育てだった娘から、私たちの育て方に対して想像もつかなかった結果を突きつけられた。これって、なんなんでしょうねって。でもね。あの子が家を出て、そして、あの手紙が出てきた。過去は取り戻すことができないけれど、もしかしたら、これからやり直すことはできるんじゃないかって。甘い期待かしらね」
「そうだよな。これからが、あるよな。」
夫は、それ以上は何も言わず、深いため息を一つついて、自室に歩いていった。バタンと静かに扉が閉まり、テーブルには飲みかけのお茶が残った。
娘が再び、私たちに心を開いてくれる日が来るだろうか。
両手で湯呑みを握り、目を瞑りながらお茶を一口飲む。お茶の苦味が口の中に広がった。ふーっとため息をつきながら、涙が頬を伝っていく。
娘が、再び私たちの元に帰ってくる日は来るのだろうか。
その日が来たら、私たちも娘に「大好き」と伝えられるかしら。 完


